




◇2025-08-25 (月)
立秋を過ぎても、容赦のない陽射しが庭に降り注いでいます。
しかし、よく目を凝らすと、その熱気の中には小さな秋の息づかいが確かに潜んでいます。
柿の実がほんのりと色づき始め、百日紅(サルスベリ)の花は盛りを過ぎて淡い紅の花びらを散らしています。
池のほとりでは数匹のシオカラトンボが水面のわずか上で軌跡を描いています。
旧居の玄関には西洋フジバカマが生けられ、清涼感が漂っています。
旧居の庭に立つと、季節は一方向に流れるのではなく、幾重にも重なり合いながら姿を変えていくことを教えてくれます。
志賀直哉が『奈良』の中で「庭に立っていると、花や草木の小さな動きに自然に気持が移って行く」と記した一節が思い起こされます。
強烈な日差しと、ひそやかな秋の兆し。
相反するものを同時に抱きとめる感受性こそ、自然と共に生きるということの本質なのかもしれません。
志賀直哉は、この旧居に暮らしながら、日々の小さな変化を見逃さずに筆をとりました。
『暗夜行路』では人生の暗がりの中に差す一筋の光を描きましたが、その眼差しは、庭先のわずかな季節の変化を捉える心の働きにも通じています。
花の終わりに新たな芽生えを見いだす視線は、彼の文学そのものの核心に重なります。
盛夏の力と、秋の気配のやわらぎ。
その狭間に身を置くと、時間は直線として過ぎ去るのではなく、環となって巡り、また折り返してくるように感じられます。
旧居の庭は、ただの風景ではなく、過去と未来を媒介し、自然と人間の呼応を映し出し、文学と生活を橋渡しする舞台です。
そこでは時間と存在が層をなして重なり合い、人間の営みもまた自然の循環の中に位置づけられていることに気づきます。
庭そのものが一枚の鏡となり、移ろいゆく自然を映すと同時に、私たち自身の時間意識を反射し返してくるかのようです。
今ここに訪れる人は、志賀直哉が感じ取ったのと同じ「季節の交差点」に立ち会っています。
その体験は、単なる観賞ではなく、自然と人間が共鳴しあう瞬間に身を浸すことです。
旧居は、自然を通じて人間存在の在り方を問いかける場であり、日常と哲学が出会う静かな思索の舞台でもあるのです。