◇2024-06-26 (水)
6月26日(水)、奈良学園セミナーハウス・志賀直哉旧居にて、奈良学園公開文化講座第71回「『源氏物語』を読む―桐壺巻②―」を開催しました。講師は奈良学園大学人間教育学部准教授の鍵本有理先生です。
本日は前回に引き続き『源氏物語』「桐壺巻」の中から、桐壺更衣の死去とその後の周りの人々の様子やエピソード、さらにのちの光源氏となる若君の成長について、原文と現代語訳で辿りながら読み進めていただきました。
桐壺更衣が亡くなった直後について綴られた箇所では、帝を始めとする多くの人の悲哀の様が描かれていました。桐壺更衣の死後、三位の追贈を授けるにあたり、「もの思ひ知りたまふは、様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたしことなど、今ぞ思し出づる」と記され、まさに桐壺更衣の人柄が伝わってくるようです。
紫式部は西暦1000年前後の半世紀に生存した人物です。ところが『源氏物語』の中で喪に服する場面では、7歳以下の若君(3歳)は宮中より退出を求められています。これは延喜七(907)年に「7歳以下でも退出に及ばぬ」という取り決めに変更される前のことを物語っていることとなるそうです。つまり、紫式部は『源氏物語』を、リアルタイムの宮中の情景をモデルに描いたのではなく、100年近く昔のお話として書かれたものであることを教えていただきました。
桐壺巻の後半に、高麗からやってきた相人(人相を見る人)が若宮を見て、「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相」であるとしながら、朝廷の重鎮となって政治を補佐する人物になると告げたそうです。倭相(日本の相術)でも同じ答えが導き出されたことを踏まえて、若宮の名前を「源氏」としたと記されているそうです。ここに物語の主人公である「光源氏」が誕生したと教えていただきました。
ところで先生からの余談で、こうした平安時代の物語がなぜ大河ドラマにならないかと言えば、当時は宮中において、顔を隠して会話するのが常で、顔を隠しての史実通りの対話ではドラマにならないという理由もあるそうです。