◇2023-02-20 (月)
旧居の2階に上った右手に六畳書斎があります。志賀直哉は日記の中に「昭和十二年三月一日_月_『暗夜行路』五十三枚程とうとう書き上げた」と記されています。私たちが親しんできた小説や随筆が生み出され、小林多喜二や谷崎潤一郎とも文学論を交わしたこの書斎には、文豪たちの熱い空気を感じ取ることができます。
2階の客間へと進むと、書斎まで陽光を導く大きな窓があり、そこから若草山、御蓋山、春日奥山が見渡せます。ただ若草山は二階から直接に眺めることができるのが冬場だけで、春になると樹木の向こうに隠されてしまいます。
志賀直哉がここに住んでいた頃は、目隠しになる樹木が存在していたかどうかは不明ですが、毎年1月の第4土曜日に実施される若草山の山焼きの後、山頂が黒い帽子を被ったように見えます。ただ今年は、雪や雨など気候の影響もありうまく火が付かなかったそうで、枯れ草色のままの若草山が見受けられました。志賀直哉はこうした風景を日々眺めながらずっと考えていたことを、『暗夜行路』を書き上げた直後、そして奈良を離れる直前(昭和13年3月15日)に毎日新聞に投稿した『置き手紙』にこう書いています。
「・・・日比谷公園、・・・天王寺公園、中之島公園、皆公園に違いないが、奈良公園を同じ公園の 呼び名でいうのは少し違っているような気がしてきた。ある広さがあればどこ にでも作れる公園と奈良のような何千百年の歴史を持ち、さらにその以前からの原始林をひかえている自然のお庭のような公園は一緒にならない」。
この投稿文の最後に若草山山麓の道路建設に強く反対することを要求しています。志賀直哉はその直後、東京へと移住することとなります。実際に当時の文部省の工事差し止め要請も通らず、道路が建設され、奈良の観光公園化は現在に至るまで続く事となりました。志賀直哉が意見を投げかけたように、その後も多くの議論を生みました。そんな奈良を心底愛した志賀直哉の心意気を感じに来られる方々が、暖かくなるにつれてここ旧居を来訪されることでしょう。
旧居の庭の白梅がそよ風に吹かれ淡い香りを漂わせてくれています。時空を超えて、奈良の太古の風を運んで来ているようです。