◇2022-01-17 (月)
1月17日(月)、奈良学園セミナーハウス・志賀直哉旧居にて、特別講座・白樺サロンの会第8回《白醉庵・吉村観阿と奈良》を開催しました。講師は梅花女子大学非常勤講師の
宮武慶之先生です。
吉村観阿は先祖が奈良の出身で、東大寺勧学院に観阿が生前につくった墓があるという、江戸で活躍していたにもかかわらず、奈良にゆかりの深い人物です。
観阿は江戸時代後期の目利きとして著名で、茶の湯をたしなむ風流な江戸の町人でした。父親は江戸の両替商でしたが、仙台藩伊達家に多額の金を貸したため破産状態に陥ります。観阿は父親と同じ両替商を営んでいましたが、俗世に嫌気がさし、34歳の時に妻子を捨てて出家し、浅草田原町に白醉庵という庵を結んで過ごします。その後、大名であり茶人として高名であった松平不昧に40回以上も茶会に招かれるなど、親しくしていたことが確認されています。不昧は観阿の生家の事情を知っており、観阿を目利きとして育てていましたが、観阿が54歳の時に亡くなり、観阿はその後、大名であり茶人の溝口翠濤のもとに出入りするようになり、器物の鑑定をするようになります。翠濤は人間的な魅力があり、優れた作品を取り次ぐ観阿を重用しました。観阿は茶道具の目利きとして多くの作品を鑑定、箱墨書を残しています。
茶人としての観阿ですが、催した茶会は二回あり、一回目は40歳の時に行われた不昧の谷園中大茶湯で利休堂席を担当した時と、二回目は80歳の時に行った茶会です。この時は記念品として、「一閑桃之絵細棗」を125個作成し配りました。この棗は現在、MOA美術館の収蔵品にもなっています。宮武先生からは、これらの茶会で供された菓子についてや、床に掛けられた歌や絵、記念品として配られた「一閑桃之絵細棗」についても詳しい解説があり、当時の情景が目に浮かんでくるようでした。
観阿の号は観阿弥陀仏の略で、平安時代の僧、重源の甥の名前に由来しています。重源は平氏による南都焼討によって大部分を焼失した東大寺の再興のため、諸国をまわって寄付を募りましたが、その時に重源の甥は仏心篤く付き従いました。観阿は重源が東大寺再興に際して作成した法華勧進状を所有し、出家した時も手放さずに大事にしていました。晩年、観阿はその勧進状を東大寺に寄進し、東大寺勧学院に墓所を得ます。また、法隆寺にも箱書きした額箱を寄進しています。
目利きとは「数寄のこころ」であり、茶人の小堀遠州は、「掘り出し物」とは、良き道具を見いだし、そこに光を輝かせることと言っていますが、観阿はこの考え方に共鳴し、仏道の一つとして、目利きというものを据えていたのではないかと考えられます。
ここに、遠州、不昧、観阿へと続く、目利きの道統があるとも捉えられるのではないでしょうか。
志賀直哉旧居にも白樺派の精神を生かしたとされる茶室があります。建築を請け負った下島松之助が 裏千家関係の数奇屋大工だったため、精魂込めて造られています。志賀直哉夫人と子どもたちが、この茶室でお茶のお稽古に励んでいたそうです。