◇2012-10-15 (月)
本学園のセミナーハウスである志賀直哉旧居で秋期特別講座(全6回)を開催しました。この講座は、この地の芸術や文学に残る貴重な遺産を継承するために、5年前に発会した"白樺サロンの会"有志を講師にお招きして開かれるものです。
最終日の本日は、姫路市立美術館学芸員の平瀬礼太先生に「奈良と銅像」と題し講義を行っていただきました。
「皆さん、"銅像"と言われて、まず思い浮かべるのは何ですか」の問いかけで講義は始まり、受講生から「西郷隆盛!」「二宮金次郎!」と声が上がりました。「東京の三大銅像は、西郷隆盛、大村益次郎、楠正成ですが、"銅像と奈良"と言われてもピンとこないでしょうか」と前置きして、銅像の歴史をエピソードをまじえながら紹介されました。
まず、近代以前は、銅像についての概念や技術が乏しかったので銅像は少なかったのですが、明治維新以降1880年代から、先の三大銅像をはじめ、各地に銅像が建てられたそうです。ちなみに日本で一番古い銅像は兼六園(金沢)の倭建命(やまとたけるのみこと)像とのことです。
歴史上の人物や偉人の像が多いということですが、井伊直弼や伊藤博文のように評価が分かれる人の像のなかには、悲惨で数奇な運命を辿るものもありました。日清・日露戦争の頃は、功績を顕彰して軍人像が増加します。1900年代には、生きている人の銅像(寿像)まで建てられるようになり、銅像建立は自粛をという声も高まります。
さて、1930~1940年代の日中戦争、第二次世界大戦時代は、金属調達のため、皇室関係、国宝級の美術品などを除く銅像は供出・鋳潰という憂き目に遭います。現存のもので再建されたものが多いのはそのためですが、先生の著書『銅像受難の時代』(吉川弘文館)に、激動の近現代史とともに時代に翻弄された銅像のことを記したと、その紹介がありました。
銅像の受難は戦後もGHQによる接収、「公葬等について」という国の指示による撤去が続きます。奈良の銅像も例外ではなく、多くが供出・差し押さえになりましたが、大台ヶ原の神武天皇像や高鴨神社(御所)の楠公像(葛城南小学校から移されたもの)は、運よくそれを免れたそうです。
先生は、香芝市穴虫の金剛砂王・安川亀太郎像が供出→再建→移転の末に井戸に埋納されたことや、北葛城郡の下田国民学校では二宮尊徳像が石で再建されたことなどの新聞記事も提示されました。また、吉野郡川上村の山林王・土倉庄三郎像、信貴山朝護孫子寺の聖徳太子像の戦前と現状の写真なども見せられました。
「このように多くの銅像は、世の風潮、戦争や道路事情などに翻弄され、はかないものでした」と話され、「奈良にまだ戦前のものや陶器製のものが残っている可能性はあります。もし見つけたらご一報ください」と、話を締めくくられました。
受講生の皆さんからは、「とてもユニークな切り口のお話でした」「全講座とも大変面白かったです。またこのような企画をお願いしたい」などの声がありました。季節が進み、旧居の南庭では、秋明菊や不如帰の可憐な姿が、秋の気配の濃くなりつつあるのを知らせてくれています。