◇2020-02-18 (火)
2月17日(月)、セミナーハウス・志賀直哉旧居にて「近代文学講座 ―文学表現の諸相― (後期第4回)」を開催しました。講師は京大以文会会員の植村正純先生です。
『オイディプス王(ソポクレス)』の後半を結末まで読み解く前に、まず物語の重畳的な手法について確認しました。
答えが示された上で主人公のオイディプス王が、どんどん追い詰められていく手法や、台詞の中に結論に導くための伏線がいくつも仕掛けられているといった手法は、現在の小説やドラマ、映画などででもよく使われるようです。
オイディプスの名は、心理学用語である「エディプスコンプレックス」の語源であることや、父子相克を主題とした物語が多数あることもご紹介いただきました。
オイディプス王が投げかけた父親殺しの真犯人は誰なのか。その追求を発端に、父親は誰だったのだろうか。そして自分自身は何者なのだろうか。
自分のルーツを追い求め、アイデンティティの根幹を知ることで、そしてこの悲劇は想像だにしなかった痛ましい結論が導き出されます。
「なぜ、人はこのような悲愴な悲劇を求めているのだろうか」という、先生の問いかけに、参加者からは「カタルシス、つまり悲惨な物語を通して自己を浄化しようとしてるのではないか」といった意見がありました。
それに関連して悲劇の物語の中で、必ず登場する「宿命」の概念について、さらに「運命」と「運」という言葉の概念的差異について考察しました。
悲惨な物語を観ることで、「それに比べて」という思いで自己のあり方を正当化し、現状肯定することにもつながるようです。
最後に悲惨な結末を補う作品として、ソポクレス自身が後に書いた『コロノスのオイディプス』や、山崎正和の『オイディプス昇天』などが紹介されました。
旧居の中庭には、白梅が満開の時期を迎えようとしています。太宰府に左遷された菅原道真や、大伴旅人、山上憶良を始め、梅の花は多くの場合、耐え忍ぶ悲しい宿命を象徴する花であることが多いようです。
梅の咲く時期は、なぜか寒戻りの時期と重なり、特に白梅の美しさは憂いを感じさせてくれます。