◇2015-02-17 (火)
本学園のセミナーハウス・志賀直哉旧居で古典講読講座《芭蕉と大和》後期第4回を開催しました。講師に、奈良学園高等学校元教員の吉村治彦先生をお招きし、月1回のペースで『笈の小文』を読んでいます。
本講座では、奈良における芭蕉の足跡をたどっていますが、芭蕉は大和、特に吉野にこだわっていました。先生は「なぜ、吉野山なのかというと、それは、芭蕉が敬慕する西行が長逗留しているからです」と説明され、西行の歌人としての功績と"吉野山の桜"の歌などを紹介されました。
西行は、31歳で高野山に入山し、しばしば吉野に入り、「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」と詠んで、釈迦の命日・如月の望月の翌日、即ち2月16日に亡くなりました。西行の和歌約2100首
のうち、230首が桜の歌で、69首の吉野山の和歌のうち24首が「吉野山」で始まっています。「それほどまでに西行は"吉野を"、"桜"を愛していたと言えます」と先生。
有名な「三夕の歌」や「小倉百人一首」の中の歌を掲示され、豊臣秀吉の辞世の歌は、実は西行の歌の本歌取りであったことなども話されました。そして、平安初期の『古今和歌集』から室町時代の『新続古今和歌集』に至るまでの21の『勅撰和歌集』について、『三代集』『八代集』『十三代集』を教示されました。
さて、芭蕉の旅の第一目的は、西行の足跡を追うことにあり、高野山や和歌の浦を訪ねた後、源氏物語の須磨・明石、平家の福原を訪ねるのですが、その前にまた奈良へ戻っています。先生は、芭蕉の足跡を地図で確認しながら読み進められ、「諸説ありますが、私は五條から葛城山山麓沿いに歩き、竹之内峠、竜田道のコースを取ったと思いたいです」と話されました。
芭蕉は、4月8日の潅仏会の日に東大寺に詣で、鹿が仔を産む姿を目撃、「潅仏の日に生れあふ鹿の子哉」と詠みます。実はこの日は東大寺再興の起工式でもあったということです。唐招提寺で鑑真和上像に拝し、道中で4月1日の「衣更(ころもがえ)」などもあったので、衣類を1枚ずつ脱ぎ捨てていったという句もあります。そして大阪に入り、幼友達の一笑のところに逗留してから、船で兵庫へ向かいます。
旧居の玄関では、平城東山野草愛好会から持ち寄られた春告げ花の「福寿草」が、今日の陽気を呼び寄せたかのように黄色のかわいらしい花を咲かせていました。