改修工事を終えて

(呉谷充利編 学校法人奈良学園発行「志賀直哉旧居の復元」より抜粋)

中村 一雄 洋画家 
元志賀直哉旧居を保存する会代表

洋画家 元志賀直哉旧居を保存する会代表 中村 一雄

この度は志賀直哉旧居の往時を偲ぶにふさわしい復元、誠におめでとうございます。

正に感無量です。今から三十年前、当時、私達は若かったし、ひょんな事から邸の取り壊しを知り、危機一髪に立ち向かったのでした。 何回かの挫折を乗り越え、保存が決まった時の歓びは終生忘れる事ができません。

今日の様な姿で復元されようとは誰が想像できたでしょう。 多くの苦難はありましたが、若しあの折、奈良学園が買い手として名乗って下さっていなかったら、この館はどういう運命をたどった事でしょう。 民間人の家が文化財として評価される事の少なかったあの時代に英断を下された意義は計り知れないものがあります。

…(中略)…

昭和二年から十三年迄父の中村義夫は志賀家と裏木戸同士の付合いをしていました。…(中略)…志賀さんは当時は私にとって「隣のおじさん」。 うちへ来られると玄関の戸をあけるのが自分の役目。その都度「大きくなったネ」と言われたもの。 最後にお会いしたのは私が二十一才の頃、丁度、父の四十九日の法事を営んでいた時でした。 正視した志賀さんの瞳は淋しそうでかつ眼光の鋭さにびっくりした覚えがある。父が亡くなった事はご存じなく、翌日の日記に書かれている。
昭和十三年四月東京へ。

あの家、売るのは考えものだと思っている。又何時か来て住みたいやうな気になっている。
(康子宛 昭13.5.1)

【志賀邸の文化的価値と今後の展望】
氏の生涯で二十三回転居されているが、この旧居の文化的価値は他所と較べても特筆されるにふさわしく大きい。公開されて三十年間に来られた建築関係の人もとても多く、その感想を集約してみる。 「窓の格子一つにしても志賀さんらしい神経が行き届いている。小説家が単に趣味で建てたとは思えない。」と語っている。「保存されるべく充分の価値がある」と高名な建築家も述べたと云う。奈良県には数多くの文化財が残されているが、この旧居は奈良の近代文学発祥の地と位置付けたい。

旧居が残る事で、これからの人達の為にも「日本人の品格と豊かさ」を感じとって貰えれば所有されている奈良学園としても本望であろう。それは文学的価値云々を超えたものである。…(中略)…旧居にはいつ迄も「ゆっくりとした時間」が流れていってほしい。一昨年、旧居と隣家の洋館(それぞれ国の登録有形文化財)そして高畑の景観を守っていこうと発起人が集まって「白樺サロン」を立上げたが、今後相互の意見交換も行われる事を望んでいる。(後略)

木村 修治 奥村組 建築設計部

私の方からは、意匠関係以外の内容を報告いたします。

この建物は主屋、表門、塀が文化財保護法の登録有形文化財に登録されています。 また、敷地も春日風致地区と歴史的風土保存区域に指定されていますので、当時の状況を修復するにあたっては、それぞれの関係部局との調整が必要でした。
特に塀が土壁から漆喰壁に変更されており、志賀直哉居住当時の姿と異なっています。 このため土壁として修復するに当たり、登録有形文化財建造物の現状変更届および色彩変更としての風致地区内行為許可申請をいたしました。 いずれも当時の写真を添付して、変更理由の説明を行っています。

また将来にわたってこの建物が存続していくためには、耐震性があるかどうかを確認せねばなりません。 建物の耐震性能の評価を…(中略)…限界耐力計算法を採用して行いました。 結果は少し専門的になりますが、損傷限界、安全限界とも層間変形角は目標値以下でした。 これは、建物が書斎、居間食堂、家族間とゾーニングされ、その間の土壁が耐震要素として全体に比較的バランスよく配置された状態になっているためです。

ゾーニングという建築概念は当時なかったと思いますが、このゾーニングが耐震的に有利とはさすが直哉も思わなかったと思います…。

本山 豊 奥村組志賀直哉旧居改修工事所 
現場代理人

当社(奥村組)の扱う物件は、鉄筋コンクリート造・鉄骨造が圧倒的に多く、当方も木造建築の施工管理は初めての経験でした。
工事内容・設計図・設計監修担当者との打ち合わせの中で工事内容を理解していくと、当改修工事の施工条件は通常の工事管理と下記の点で大きく異なっております。

①これまで通り一般者に見学開放しながら改修工事を進めていく。
②施工のほぼ大半を宮大工に委ねる事になる。
③建物を志賀直哉在住当時の状態に復元する。

…(中略)…

工事手前より、施主 奈良学園様、監修者 呉谷教授、宮大工 山本工務店、 その他保存運動や改修工事を支援して頂いた様々な方々の志賀直哉旧居改修工事に対する思い入れ、熱意、ご尽力に支えられ、 この度無事直哉在住当時の状態に改修出来、又、その工事に携われた事を非常に感謝しております。 今後、この建物が多くの方に愛され、末永く保存されることを心より願っています。

山本吉治 宮大工 棟梁

プロフィール

宮大工山本吉治棟梁

創業寛永2年(1625年)の8代続く宮大工の家に生まれる。
大学卒業後、宮大工である父親に弟子入りし、厳しい修業時代を過ごす。平成9年に9代目棟梁となる。奈良県桜井市在住。

山本工務店HP

志賀直哉旧居の修復工事に携わらせていただいたことで、当初この建物を建てた先輩職人の方々の仕事を間近で見ることができ、 木と木の納め方、化粧材の仕舞いのしかたなど、建物に対する考え方が手に取るように判りました。

例えば、直哉氏が好んだ自然の曲がりの木を使うために、「上がり水」という技法が使われていることが、軸組の墨付けの跡からも読み取れました。 このような木造軸組の規矩術等の技術は、現在にも変わることなく伝わっているので、「一尺目」と書かれた墨だけでも、当時の仕事のやり方が見えてきます。 この度の修復工事にあたり、寄贈の写真とともに重要な資料となったのが、柱や梁に残っていた鑿で掘られた穴や目地といった置手紙でした。 特に歴史の中で、米軍に接収された後、旧厚生省の宿泊施設になるというように、持ち主が変わるにともなって改築されてきた建物ですから、 どの時代のものかを判断することが難しいこともありましたが、一枚壁をめくる度にタイムカプセルを開けるようにいろいろな置手紙が見つかり、 当時の仕事と断定できるような発見をした時はうれしくて本当に楽しい思いをさせていただきました。

近頃は建築基準法の関係から、金物を多用しないと建物を建てられなくなってきていますが、どうも私は好きではありません。 今回の床組の修復でも、土台はできるだけ短く刻まず、長い一本木を使いたいと考えました。 なかなかそうもいかない場所もあり、その場合は、継手の仕口に一本木と同じ強さと粘りが出るように、シャチやコメ栓を使って工夫をしました。 こんな工夫が、志賀直哉旧居に数十年後かに行なわれるであろう修繕の時の置手紙になるとしたら、大変光栄なことだと思います。

多くの方々にご協力いただき、無事竣工できましたことを深くお礼申し上げます。

TOP