志賀直哉旧居復元について

平成の修復工事では、志賀直哉が暮らしていた時代に戻すための様々なこだわりがあります。
そんな修復工事の過程を一部ご紹介します。

修復箇所と復元の経緯

下のタイトルをクリックすると、修復の詳細が表示されます。

各部屋

夫人の間、広縁

広縁は、解体調査で一部に畳が敷いてあった事が判りました。

  • [修復前] 板の間になっていた
  • [修復後] 一部畳敷きに復旧する
  • [修復後]全景
子供勉強部屋、直吉の部屋

広縁は、解体調査で一部に畳が敷いてあった事が判りました。

  • [修復前] 畳敷きの床になっていた
  • [修復後] 暖かみのあるコルク貼りの床に改修する

直吉の部屋の壁を調査したところ、内部に方立等が埋められていました。

  • [修復前] 子供部屋の出入口は1箇所
  • [修復後]出入り口を2箇所にもどす
  • [修復前] 壁の中から出てきた鴨居敷居
  • [修復後] 障子建具を入れ、左側の壁も修復する
  • [修復前] 部屋内に飛び出して作られた押入
  • [修復後] 腰板を連続させる
子供の寝室、直哉の居間

米軍接収時代、鴨居の高さが上げられていたものを、当初の高さに戻しました。

  • [修復前] 鴨居の位置が高かった
  • [修復後] 鴨居を下げる

子供の寝室の押入は、一段高い床を持つ二間の押入に修復しました。

  • [修復前] 右側の襖を開けると廊下
  • [修復後] 二間の押入へと修復する
書斎Ⅰ

地袋の建具を寄贈写真通り板張りに修復しました。 押入の建具は当時のままの張地です。

  • [修復前]戸襖になっていた
  • [修復後] 襖から板戸に戻す
  • [修復後] 書斎全景
  • [参考] 本が積み上がる書斎〜寄贈写真より〜
書斎Ⅱ

床の補強を行うと同時に畳を入れ替えました。

  • [修復前] 畳が痛んでいた
  • [修復後] 南側に17センチ下がっている為、水平に戻す。
    畳表は日焼けしていたものを使い新調する
客間

欄間建具を寄贈写真の通り荒間格子に修復しました。

  • [修復前] 欄間に細かい格子を使用していた
  • [修復後] 荒間格子に改修する
  • [参考] 美しい景色を臨む客間〜寄贈写真より〜

屋外・玄関

建物全般

白蟻や湿気のため、土台をはじめとして床組みが腐朽していたため、建物を4ブロックに分けてジャッキアップし、部材の取り替え、補強を行いました。

  • H鋼の搬入の様子
  • ジャッキアップ
  • 土台の入れ替え
玄関

玄関戸を寄贈写真の通り、井桁格子に修復しました。

  • [修復前] 玄関の様子
  • [修復後] 井桁格子の玄関戸に戻す
  • [参考] 寄贈写真より
    〜かつての玄関の様子〜
土塀全般

直哉当時の土塀が見えるまで掻き落としました。傷みが激しかったため、塗り直していますが、所々に島のように残してあるのが、当初の土塀です。

  • [修復前] 白く塗られていた土塀
  • [修復後] 所々に当初の土塀を残す
  • [参考] 土塀が続く小径
    〜寄贈写真より〜

北側は、いつの時代にかコンクリートブロックの塀に変わってしまったものを撤去し、古来の方法により、土塀に修復しました。

  • 「ねこ」と呼ぶ土を固めて作ったブロックを積んだ修復作業中の様子。補強の為に間にはさみこんだ棕櫚縄を、絡めながらいっしょに塗りこんでいる
  • [修復後] 荒塗りが終わった土塀

水回り

洗面所、浴室

洗面所の前の廊下に、ホゾ穴の跡などから大きな引き分け窓があったことが判り修復しました。

  • [修復前] 飛火野荘時代に作られた洗面所
  • [修復後] 洗面所を撤去し、竹格子の付いた窓へ改修する

浴槽は、直吉氏のお話で、角型の五右衛門風呂と判りました。現在では角型のものは非常に珍しく、まして上部が木製のものは市販されていませんので、焚口と共に現場製作しました。

  • [修復後] 角型の木桶が付いた長州風呂(当時はもう少し大きいもので、中に木の板で仕切りがあった)。
    水の出るシャワーも備え付けられている
  • [修復後] お風呂の焚口

洗面所は場所の特定が難しかった所の一つです。
解体調査で推測された場所を直吉氏のお話で確定し、修復しました。

  • [修復後] 場所を特定し、修復された洗面所
  • [参考] 洗面所の様子
    〜寄贈写真より〜
食堂

天井中央の部分は、換気口が2箇所開けられていました。旧厚生省の宿泊施設「飛火野荘」の時は、換気口を塞ぎ、蛍光灯を取付、格子枠が填まった間接照明として利用されていました。
この度の修復では、格子等を取り除き、寄贈写真に写っていた照明器具が納戸から見つかりましたので、それを取付けました。

  • [修復前] 飛火野時代の格子のはまった間接照明
  • [修復後] 照明は当時のものが納戸から見つかる
  • [修復後] 寄贈写真を元に机を制作する
  • [参考]寄贈写真
台所、女中部屋

台所は大きく改装されていました。解体調査で女中部屋の造りが判り、流し台等と共に修復しました。

  • [修復前] 床、壁、天井すべて変えられていた
  • [修復後] 寄贈写真を元に、流し台を製作する
  • [修復後] 当時の氷冷式冷蔵庫を製作する
  • [修復後] 4枚の引違い建具をはめる(推定)。
    手前は、4.5帖の「女中部屋」
  • [参考] 女中の方々で賑わう台所
    〜寄贈写真より〜

その他

サンルーム

にじり口は、米軍接収時代鴨居が上げられていて、にじり口とは呼べないものになっていました。左右の柱には建築当初の鴨居のホゾ跡が残っており、その高さまで鴨居を下げ、寄贈写真にあった、下地窓を取り付けました。

  • [修復前] 米軍の生活スタイルに合わせ、鴨井の位置が上になっていた
  • [修復後] 志賀直哉時代のにじり口に改修する
  • [参考] サンルームで談話をする人々
    〜寄贈写真より〜

天窓は、当初のように硝子に修復しました。南側の連続した窓と併せて陽射しを存分に取り入れることができます。

  • [修復前] 天窓がプラスチック製の波板になっていた
  • [修復後] 室内にも明るい光が入るようにガラス張りにする

照明は、寄贈写真の通り修復しました。

  • [修復後] 寄贈写真に忠実に修復した照明
  • [参考] 灯篭のような照明
    〜寄贈写真より〜
待合

柱、壁ともに崩れていたものを、屋根組を残しすべて修復しました。

  • [修復前] 柱も壁も崩れていた
  • [修復後] 柱などに古色塗りをする
茶室

茶室、書斎のブロックは、基礎の傷みから、北東に傾いていました。基礎の補強を行い、傾きを補正しました。庇、屋根廻りも改修しています。

  • [修復前]ゆがみが目立つ
  • [修復後]美しい屋根を復元する
  • [修復後]炉縁を新調した

炉縁を新調するなど、茶事にも対応できるようになりました。

  • [参考] 茶室前の庭の様子
    〜寄贈写真より〜
  • [参考] 茶室の様子
    〜寄贈写真より〜

志賀直哉旧居改修工事を終えて

呉谷充利編 学校法人奈良学園発行「志賀直哉旧居の復元」より抜粋)

中村 一雄 洋画家 
元志賀直哉旧居を保存する会代表

洋画家 元志賀直哉旧居を保存する会代表 中村 一雄

この度は志賀直哉旧居の往時を偲ぶにふさわしい復元、誠におめでとうございます。

正に感無量です。今から三十年前、当時、私達は若かったし、ひょんな事から邸の取り壊しを知り、危機一髪に立ち向かったのでした。 何回かの挫折を乗り越え、保存が決まった時の歓びは終生忘れる事ができません。

今日の様な姿で復元されようとは誰が想像できたでしょう。 多くの苦難はありましたが、若しあの折、奈良学園が買い手として名乗って下さっていなかったら、この館はどういう運命をたどった事でしょう。 民間人の家が文化財として評価される事の少なかったあの時代に英断を下された意義は計り知れないものがあります。

…(中略)…

昭和二年から十三年迄父の中村義夫は志賀家と裏木戸同士の付合いをしていました。…(中略)…志賀さんは当時は私にとって「隣のおじさん」。 うちへ来られると玄関の戸をあけるのが自分の役目。その都度「大きくなったネ」と言われたもの。 最後にお会いしたのは私が二十一才の頃、丁度、父の四十九日の法事を営んでいた時でした。 正視した志賀さんの瞳は淋しそうでかつ眼光の鋭さにびっくりした覚えがある。父が亡くなった事はご存じなく、翌日の日記に書かれている。
昭和十三年四月東京へ。

あの家、売るのは考えものだと思っている。又何時か来て住みたいやうな気になっている。
(康子宛 昭13.5.1)

【志賀邸の文化的価値と今後の展望】
氏の生涯で二十三回転居されているが、この旧居の文化的価値は他所と較べても特筆されるにふさわしく大きい。公開されて三十年間に来られた建築関係の人もとても多く、その感想を集約してみる。 「窓の格子一つにしても志賀さんらしい神経が行き届いている。小説家が単に趣味で建てたとは思えない。」と語っている。「保存されるべく充分の価値がある」と高名な建築家も述べたと云う。奈良県には数多くの文化財が残されているが、この旧居は奈良の近代文学発祥の地と位置付けたい。

旧居が残る事で、これからの人達の為にも「日本人の品格と豊かさ」を感じとって貰えれば所有されている奈良学園としても本望であろう。それは文学的価値云々を超えたものである。…(中略)…旧居にはいつ迄も「ゆっくりとした時間」が流れていってほしい。一昨年、旧居と隣家の洋館(それぞれ国の登録有形文化財)そして高畑の景観を守っていこうと発起人が集まって「白樺サロン」を立上げたが、今後相互の意見交換も行われる事を望んでいる。(後略)

木村 修治 奥村組 建築設計部

私の方からは、意匠関係以外の内容を報告いたします。

この建物は主屋、表門、塀が文化財保護法の登録有形文化財に登録されています。 また、敷地も春日風致地区と歴史的風土保存区域に指定されていますので、当時の状況を修復するにあたっては、それぞれの関係部局との調整が必要でした。
特に塀が土壁から漆喰壁に変更されており、志賀直哉居住当時の姿と異なっています。 このため土壁として修復するに当たり、登録有形文化財建造物の現状変更届および色彩変更としての風致地区内行為許可申請をいたしました。 いずれも当時の写真を添付して、変更理由の説明を行っています。

また将来にわたってこの建物が存続していくためには、耐震性があるかどうかを確認せねばなりません。 建物の耐震性能の評価を…(中略)…限界耐力計算法を採用して行いました。 結果は少し専門的になりますが、損傷限界、安全限界とも層間変形角は目標値以下でした。 これは、建物が書斎、居間食堂、家族間とゾーニングされ、その間の土壁が耐震要素として全体に比較的バランスよく配置された状態になっているためです。

ゾーニングという建築概念は当時なかったと思いますが、このゾーニングが耐震的に有利とはさすが直哉も思わなかったと思います…。

本山 豊 奥村組志賀直哉旧居改修工事所 
現場代理人

当社(奥村組)の扱う物件は、鉄筋コンクリート造・鉄骨造が圧倒的に多く、当方も木造建築の施工管理は初めての経験でした。
工事内容・設計図・設計監修担当者との打ち合わせの中で工事内容を理解していくと、当改修工事の施工条件は通常の工事管理と下記の点で大きく異なっております。

①これまで通り一般者に見学開放しながら改修工事を進めていく。
②施工のほぼ大半を宮大工に委ねる事になる。
③建物を志賀直哉在住当時の状態に復元する。

…(中略)…

工事手前より、施主 奈良学園様、監修者 呉谷教授、宮大工 山本工務店、 その他保存運動や改修工事を支援して頂いた様々な方々の志賀直哉旧居改修工事に対する思い入れ、熱意、ご尽力に支えられ、 この度無事直哉在住当時の状態に改修出来、又、その工事に携われた事を非常に感謝しております。 今後、この建物が多くの方に愛され、末永く保存されることを心より願っています。

山本吉治 宮大工 棟梁

プロフィール

宮大工山本吉治棟梁

創業寛永2年(1625年)の8代続く宮大工の家に生まれる。
大学卒業後、宮大工である父親に弟子入りし、厳しい修業時代を過ごす。平成9年に9代目棟梁となる。奈良県桜井市在住。

> 山本工務店HP

志賀直哉旧居の修復工事に携わらせていただいたことで、当初この建物を建てた先輩職人の方々の仕事を間近で見ることができ、 木と木の納め方、化粧材の仕舞いのしかたなど、建物に対する考え方が手に取るように判りました。

例えば、直哉氏が好んだ自然の曲がりの木を使うために、「上がり水」という技法が使われていることが、軸組の墨付けの跡からも読み取れました。 このような木造軸組の規矩術等の技術は、現在にも変わることなく伝わっているので、「一尺目」と書かれた墨だけでも、当時の仕事のやり方が見えてきます。 この度の修復工事にあたり、寄贈の写真とともに重要な資料となったのが、柱や梁に残っていた鑿で掘られた穴や目地といった置手紙でした。 特に歴史の中で、米軍に接収された後、旧厚生省の宿泊施設になるというように、持ち主が変わるにともなって改築されてきた建物ですから、 どの時代のものかを判断することが難しいこともありましたが、一枚壁をめくる度にタイムカプセルを開けるようにいろいろな置手紙が見つかり、 当時の仕事と断定できるような発見をした時はうれしくて本当に楽しい思いをさせていただきました。

近頃は建築基準法の関係から、金物を多用しないと建物を建てられなくなってきていますが、どうも私は好きではありません。 今回の床組の修復でも、土台はできるだけ短く刻まず、長い一本木を使いたいと考えました。 なかなかそうもいかない場所もあり、その場合は、継手の仕口に一本木と同じ強さと粘りが出るように、シャチやコメ栓を使って工夫をしました。 こんな工夫が、志賀直哉旧居に数十年後かに行なわれるであろう修繕の時の置手紙になるとしたら、大変光栄なことだと思います。

多くの方々にご協力いただき、無事竣工できましたことを深くお礼申し上げます。

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